新徴組屋敷 創建:明治3年(1870) 移築:明治8年(1875) 移築修復:昭和61年(1986)
1986(昭和61)年移築復元された開墾士の住宅です。庄内藩が江戸取締の任に合ったとき、配下の浪士組織「新徴組」が庄内移住にあたり、藩が1870(明治3)年鶴岡、大宝寺、道形に建てた137棟の住宅を新徴屋敷と称しました。そのうち、約30棟を1875(明治8)年頃、松ヶ岡開墾の組小屋として移されたものです。
その後開墾士の住宅となりました。石置屋根平屋建て。
新徴組
新徴組は江戸時代末期に清河八郎の献策によって幕府が新たに徴募した浪士組の後身である。文久3年(1863)2月、幕府は上洛する将軍家茂を警護するため、浪士組234名を先発させ京都郊外の壬生村に駐屯させた。ここで組長格の清河八郎は幕府の意に反し浪士一同を前にして尊皇攘夷を唱え全員の同意を求めた。しかし近藤勇ら13名はこれに従わず分派となって京都守護職松平容保のもとで新撰組となった。
こうして浪士組は将軍警護の任を解かれ幕府の取締役に率いられて3月江戸に戻った。幕府は4月13日清河を暗殺、同調する幹部を逮捕し、残った浪士組をもって新徴組を編成。その人数は169名となり、当時江戸府内取り締まりに任じていた庄内藩に預け、その指揮のもとに江戸市中の巡回警備にあたらせた。
翌元治元年(1864)12月新徴組士は幕命により庄内藩の家臣となる。組の構成は脱退者もあり慶応元年(1865)に改編されて一番組から六番組までとし、幹部も含め総数160名ととなった。なお従来五藩で分担していた府内取締は幕命によりこの年から庄内藩が一手引受となった。
新徴組には、新選組沖田総司の兄林太郎が所属している。
▲このページのTOPへ